2010年8月23日月曜日

経験と人格

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シナリオを書いていて強く思うことがあります。
最近の演劇や小説、映画、漫画などを読んだり見たりしているときにも同じように考えることです。

結局、シナリオを書く人間が表現できるのは自分だけなんだなぁということ。

多くの人間が登場するものを書こうとすると、それに登場する人物はどこかしら自分の性格や経験の一部を持ったものにしかならず、喋る内容も、行動も、どこかしら自分に似てきてしまうわけで。
それ以上のものを書くこともできることはありますが、結局は知識として知っていることのみを土台としていては薄っぺらいものしか書けません。その心情を描写することも難しいし、さらに見るものを納得させるような説得力を出すのは大変なことです。

逆に、だからこそ文章に一定の統一性が出るという効果もあるんでしょうが、キャラクターの掘り下げが足りないとそれも意味が無いわけで。
私のように素人同然のシナリオ書きには、まだまだ勉強不足だなぁと思わせられることばかりです。

そういう意味で、登場人物の書き分けを上手く出来る人に強い憧れを感じてしまいます。めったに居ませんけどね(特に、テレビなんかの脚本家という輩の書く文章のひどさには目が回ります)。
アメリカでは既に脚本を書くこと自体個人ですることは少なく、脚本家のチームを作って多人数で書いているというのにもきちんと理由があるのだなぁ、と思いますね。


とりあえず今心がけなければいけないことは、「シナリオを書いている人間の思い描く主題を、登場人物がカメオ発言で表現するのは最低な手段だ」ってことです。それは、書かれたキャラクターには主観が存在せず、単にシナリオを書いた奴がそのキャラクターの口を使って喋っているだけの状態なのですから。

出てくるキャラクターにはそれぞれの世界があり、その世界を元に会話を行う。
こんな基本的なことも、シナリオを書いている人間の人生経験値が低いと難しくなってしまうんですね。

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